西遊記から

 「封神演義」があんまり面白かったので、岩波文庫版全十冊中野美代子訳と平凡社太田辰夫・鳥居久靖訳上下二巻を読んでみました。
 中野氏の長い解説で解るのだけれど、唐代の史実から何百年もの時をかけて、おおまかな骨格が「釈厄伝」としてできるのは明代とか、中野訳は「李卓吾先生批評西遊記」後者は「西遊真詮」が底本とか。子供の頃読んだ本の記憶しかなかったので、漢詩がこうまでてんこ盛り、五行の数字配当に則ってエピソードが置かれ、かつ、中心軸・天地数の中心軸それぞれに左右対象に似たエピソードを配した理詰めで作りこんだ構成になっていたことに驚いた。
 悟空の出自は東勝神州傲来国花果山山頂の仙石がうんだ卵、八戒・悟浄は元は天界の住人が、八戒は女神に戯れかけ、悟浄は瑠璃の鉢を手が滑って落として割ったとか、下界に落とされ三蔵の伝教を援けた功によって、浄檀使者・金身羅漢に。三蔵は、前生釈迦の第二の弟子金蝉子、やはり懈怠の罪?を犯したとかで取経の旅中「八十一難」に会うことになっていて、伝教の功で如来から栴檀功徳仏に。悟空は、闘戦勝仏に。仏法の取経の旅とはいいながら、三蔵の弟子たち(観音菩薩がメンバーを予め選定している)は、道教の世界出身。主な妖怪も、出自は天界地上ではモンスター化で大迷惑。うらに因縁話があって理由が明かされることもある。殺して始末は、動物が年月経て妖怪化したもので、殆どが天界に収服され、手に負えないのは仏教関係者に。金角・銀角なんぞは太上老君の炉の番人、瓢箪で溶けたのを精を取り出し天界へ。悟空が悪戦苦闘、天界の応援団・四海の竜王の援助を得ても取り押さえられなかった紅孩児牛魔王羅刹女の子、真火をあやつる)などは、観音菩薩に金箍(悟空は緊箍を頭にはめられている)を両手・両足・頭にはめられ善財童子として観音に仕えることに。「封神演義」でも厄介な敵はこのものは仏法に縁ありとか西方に縁ありとかいわれて放逐されていったっけ。悟空はいわば天才。努力も厭わず。直情径行型で凡人の気持ちがわからずコミュニケーションが苦手かも。三蔵は、慈悲心に溢れ・使命全うの意志堅固・身を清浄に護ろうとする凡身凡胎の者、凡眼でしかみえない。八戒はスケベ心は有るは食い意地は張っているは物欲も強く(中野氏も嫌っているようであんぽんたんとかぼけなすとか散々な言われよう)悟空への嫉妬心か邪推して、再三、三蔵に緊箍呪を唱えさせる。悟浄は影が薄いが、しっかり皆を観察する良識派、自分の力量を把握悟空・八戒をたて、だが、いざとなれば勇気を奮い使命を果たそうとするし、意志は強く時には二人を諭したりもする。汚れ仕事は弟子に任せきれいごとばかり言う三蔵は、暑いの寒いの喉が渇いたの腹が減ったのとケッコウ愚痴を言ったりする。(「三国志」だったら三蔵は劉備、悟空は関羽八戒張飛、悟浄は諸葛孔明か。)三蔵・劉備より悟空・関羽のほうが人気があるのは当然な気がする。
 第四十七回で悟空が国王にいうせりふ「どうか三教(儒・仏・道)を一に帰し、僧侶も敬えば道士も敬い、また人材を養い国家の安泰を図られますよう望みます。」ときた。う〜ん。
 紅孩子のところで脚注に、三昧の真火とあって釈迦入滅の時その宝棺は如何なる火をもってしても焼けなかったが、釈迦自身が発した火ではじめて荼毘にふすことが出来たという。最後の審判を信じ復活を信じる宗教では、焼かないらしいが。
 西遊記で描かれる戦いは、善と悪の戦いというのからはおよそ程遠い。ほとんどはモンスター化(妖怪化)して、民草に害を及ぼす輩を調服しているのだから。私の知っている仏法でも、悪は滅するべきものではない。いや、滅することが不可能なのだ。十界互具といって、仏界から地獄界すべてが備わっているのが実相なのだから、朝に夕に手を合わせる御本尊の相貌を見ても、中央に南無妙法蓮華経仏、左右に釈迦・多宝の二仏、四菩薩、声門・縁覚・天・人・修羅・畜生・餓鬼・地獄それぞれの界の代表が名を連ね、釈迦に敵対した提婆達多の名まである。広宣流布といわれる目標とする世界は「舎衛の三億」という言葉どうり、世の三分の一がという話で、一つの宗教でというような全体主義とは相容れないものだ。