宗教のこと

 ひさしぶりだ。近所に藪がなくなったせいか、ことしは鶯の鳴き声をきいていない。今日,桜は満開だった。ようやく、町内会の仕事が終わった。今年度うちの並びで、3人亡くなった。犬の散歩で行き会う犬も、テッチャン・コウタロウ・ビーチャン死んだそうだ。御通夜・葬儀のお知らせが来ても、行くのが億劫だと思ってしまう。そうかとおもえば、たいがいの式に顔をだす人もいる。薄いご近所づきあいで唯一亡くなった家の家庭の事情が伺えるからだと思う。申し訳ないけれど私はあんまり関心がない。出来れば、関心を持たれたくもない。もし私が死んだら、とっとと焼いて欲しいと思う。一年くらいは死んだと言わず「旅にでております。さあ、いつかえってくるか?」と、いっといて下さい。法事も墓参りもやんなくていいです。この前、義父の式でおもったんだけど、なりたての僧侶より私のほうが経文が読めてた。朝晩勤行欠かさず40年以上もやってるんだから当然といえば当然のこと。もし気がとがめるようなら、追善供養したければ、輪廻転生が有るものなら、(なんと条件の多い!)上空一万メートルを飛ぶ蚤にしてもらおうと思うので、たまに空を見上げて心の中でお題目を送ってやってください。宗教のこと知りたくて{世界一わかりやすい世界の宗教}とか読んでました。古い起源をもつものから新しい運動まで「すべての宗教は、最初は新興宗教だった」っていうのはちょっと安心な考え方だ。儒教道教神道まであって、儒教道教についてもっと知りたくなりました。大乗非仏教論もあるらしいが「御義口伝」は、素晴らしいとおもう。世界と人間を見る眼が変わる。大乗仏教非仏教論というのもあるらしいが、竜樹が説いて、天台・章安・伝教と磨かれた言説は魅力的だ。ただ、日蓮も時代の制約をうけていたのだから、世界宗教として脱皮をしてもいいのだろうが、せっかくの精緻な理論をすてて、世界の有名人の言葉の引用に終始するのはいかがなものか。「凡夫のなかの大凡夫」といい晩年の手紙では「下痢に苦しんでいる」とも、気取りも繕いもなしありのまま。そのあとを継ぐ者、地湧の菩薩だというのであれば、やたらに勲章など名誉とするべきではないし、噂どうり在日ならば在日と言えばよい、「栴陀羅が子なり」とむしろご自身の身分の低さを誇りとされていたのに。戦乱・飢饉・疫病に苦しむ者、生活苦・病苦にあえぐもの(自殺者も)。昨今は「吹く風枝を鳴らさず、雨土塊を砕かず」どころか激しい風水害。今現在にちゃんと対応できていると?。